ドラッカー最後の講義④
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●千葉高大(TakahiroChiba)
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05年3月21日、ドラッカーは最後の講義を行った。亡くなる8ヵ月前のことだった。95歳を迎えたドラッカーは前の年に腰を骨折するなどしたため、立ちながら話すのは無理だった。そのため、特別に用意された1人がけソファに着席して講義することになった。「最後の講義」は今なお新鮮である。ドラッカーのマネジメント思想は時代を超越する。
米国を代表する経営学者ジム・コリンズ。出世作『ビジョナリー・カンパニー』を出版した1994年当時は、無名の存在だった。成功のきっかけをどうやってつかんだのか。恩師と仰ぐピーター・ドラッカーから直々に“啓示”を受けたからである。
経営大学院ドラッカースクールが主催する「ドラッカー生誕100年祭」に呼ばれたコリンズは、何百人もの聴衆を前に講演し、恩師との運命的出会いを振り返った。聴衆には、同スクールに多額の寄付をしているセブン&アイ・ホールディングス名誉会長、伊藤雅俊の姿もあった。
企業が持続する条件を示した『ビジョナリー・カンパニー』を出版した直後、コリンズはドラッカーからのメッセージが留守番電話に入っているのに気づいた。
「もしクレアモントまでご足労を願えるのならば、歓迎しますよ」
ロッククライミングが好きで、コロラド州ボルダーに住むコリンズは、緊張しながら折り返しの電話を入れた。
「ドラッカーさん? ジム・コリンズです」
「もっと声を大きく! 私はもう若くないんだから!」
「ドラッカーさん! ジム・コリンズです!」
電話口で大声を張り上げながら、クレアモントへ行くと伝えた。その時点では、当時85歳のドラッカーと出会うことで、その後の人生が一変してしまうとはつゆ思わなかった。
質素なドラッカー宅を訪れると、質問攻めに遭った。
「なぜコンサルティング会社を立ち上げたいのか?」
「好奇心もあるし、世の中に影響を与えたいからです」
30代半ばだったコリンズは、映画「スターウォーズ」に出てくる賢人ヨーダから大切な教えを授かるような心境だった。「冷たいコーラでもどう?」と聞かれると、「この質問にも何か深い意味合いがあるのでは」と思わずにいられなかった。
コリンズの人生に大きな影響を与えたのが、ドラッカーが投げかけた次の質問だった。
「君は永続するマネジメント思想をつくりたいのか? それとも、永続するコンサルティング会社をつくりたいのか?」
会社設立は手段にすぎないのに、いつの間にかそれが目的化していたのに気づかされたのだった。
永続するマネジメント思想──。これを目標にして、コリンズは『ビジョナリー・カンパニー2』『ビジョナリー・カンパニー3』を出版し、押しも押されもせぬスター経営学者になった。「ドラッカーの後継者」といわれることもある。
永続するマネジメント思想──。これを目標にして、コリンズは『ビジョナリー・カンパニー2』『ビジョナリー・カンパニー3』を出版し、押しも押されもせぬスター経営学者になった。「ドラッカーの後継者」といわれることもある。
初めてマネジメントを体系化したドラッカー
だが、「永続するマネジメント思想」という点でドラッカーは巨人だ。2005年11月に彼が他界したときに、英有力誌「エコノミスト」は「20世紀最高のマネジメント思想家」と伝えている。
分権化、目標管理、顧客創造、知識労働者──。いずれもドラッカーが広めた経営概念で、今では世界中の企業で導入されている。「ドラッカーに由来する」という事実を意識していない経営者も多い。それほど当たり前になっているというわけだ。
ドラッカーは「マネジメントの発明者」と呼ばれることがある。ただ、彼自身は「発明したと言ったことは一度もない。偉大なエンジニアであるフレデリック・テイラーは私よりもずっと先行していた」などと強調していた。確かに、テイラーは11年に『科学的管理法』を発表し、フォード・モーターの「T型フォード」が象徴する大量生産時代の幕開けを担っている。
しかし、ドラッカー以前にマネジメントを体系的にとらえた人はいなかった。ドラッカーは54年に金字塔『現代の経営』を発表し、マネジメントの体系化に成功している。ここに出てくるのが有名な3つの問い、すなわち「われわれの事業は何か?」「われわれの顧客は誰か?」「顧客にとっての価値は何か?」である。
経営学者としてのドラッカーの原点は、46年に出版した『企業とは何か』(旧訳の邦題は『会社という概念』『現代大企業論』)にある。彼は第2次大戦中、当時の世界最大企業ゼネラル・モーターズ(GM)のコンサルタントを引き受けた。その経験を基に書いた同書の中で、すでに分権制や目標管理を解説している。
同書は出版されるや否や、GMでは拒絶されたものの、フォード・モーターやゼネラル・エレクトリック(GE)といった大企業で相次ぎ事実上の「教科書」として採用された。ドラッカーが引き金になり、それから数十年にわたって分権制導入など経営改革ブームが続いたのである。
ドラッカー思想の神髄 「社員はコストではなく資源」
ドラッカー研究の第一人者でドラッカースクールの教授であるジョセフ・マチャレロは「分権化や目標管理などのマネジメント用語だけではドラッカーを語れない。肝心な要素が欠けているからだ。それは人間主義」と語る。そのうえで「この人間主義こそ、日本企業に最も大きな影響を及ぼしたドラッカー思想」と指摘する。
人間主義についての考え方がはっきり示されているのが50年出版の『新しい社会と新しい経営』だ。ここで「社員はコストではなく資源」という名言が生まれる。これがドラッカー経由で日本へ持ち込まれ、労使協調や終身雇用というかたちで定着した。ドラッカー自身「(同書で取り上げた考え方は)米国で拒絶されたが、日本で受け入れられた」と語っている。
日本でドラッカー流を忠実に実行した代表例がトヨタ自動車だ。奇しくも、『新しい社会と新しい経営』が出版された50年は、経営危機の責任を取って同社創業者の豊田喜一郎が辞任に追い込まれた年だった。これをきっかけに「雇用に二度と手をつけてはならない」は事実上の社是になった。
コリンズにドラッカーの歴史的意義について尋ねると、次のような答えが返ってくる。
「ドラッカーはなぜ生涯にわたって書き続けてきたのか。社会を生産的にするためではない。社会を人間的にするためだ。このいすや机はコストだが、人間であるあなたはコストではない。こんな当たり前のことを忘れている経営者がなんと多いことか」
コリンズはドラッカーの「社員はコストではなく資源」を振り返りながら語る。「ドラッカーがいなかったらわれわれは今よりも暗い世界に住んでいるだろう」と考えるコリンズにしてみれば、人間主義はドラッカー思想の神髄なのだ。
「数字」ではなく「人間」に目を向けたドラッカー
人間主義はどこから来ているのだろうか。30年代のロンドン時代、ドラッカーは自分自身が「数字」ではなく「人間」に関心を持っていることに気づいた。
ドラッカーは当時、ケンブリッジ大学でジョン・メイナード・ケインズの講義を聴講していた。昨年7月に文庫化された自伝『知の巨人 ドラッカー自伝』の中で、いつも大盛況だったケインズの講義を回想している。
「ケインズはシュンペーターと並ぶ20世紀最高の経済学者であり、講義では学ぶことも多かった。それでもケインジアンになろうとは思わなかった。経済学者は商品の動きにばかり注目しているのに対し、私は人間や社会に関心を持っていることを知った」
大恐慌から脱出するための処方箋を書いたスター経済学者を前にしても、経済学者のキャリアを選ぶ気になれなかったわけだ。それほどの異端児だった。ナチスが33年に政権を掌握する直前までドイツで過ごしたため、ナチズムが象徴する全体主義をかねて毛嫌いしていた。そんなことから、全体主義のアンチテーゼでもある人間主義に傾斜したのだろうか。
37年、大恐慌真っただ中の米国へ移住した際に、IBMに興味を抱いたのも当然の流れだった。当時、多くの企業は空前のリストラに走っていた。失業率はピーク時に25%に達し、「100年に1度の経済危機」ともいわれた08年の金融危機(失業率10%)の比ではなかった。にもかかわらず、IBMは完全雇用を維持し、成長を続けていたのだ。
『現代の経営』の中で、ドラッカーは1章割いて大恐慌時のIBMの雇用政策を解説している。そこでは、「IBMは成長したから不況時にも雇用を維持できたという言い方は正しくない。逆に、雇用を維持したからこそIBMは成長できたのである」というIBM幹部の言葉が紹介されている。
もちろん、やみくもに完全雇用を維持することを提唱していたわけではない。
「最後の講義」でも語っているように、適材を適所に配置できる完全雇用でなければ意味がないのだ。
最後の講義のテーマが「NPO」であった理由
「マネジメントは企業の専売特許ではない」とかねて唱えていたドラッカー。晩年は、コンサルタントとしての仕事の8割を病院や大学、教会などNPOへ振り向けていた。多くはいわゆるプロボノ(無報酬の公益サービス)だった。「最後の講義」のテーマがNPOだったのも、単なる巡り合わせとは言い切れない。
「マネジメントは企業の専売特許ではない」とかねて唱えていたドラッカー。晩年は、コンサルタントとしての仕事の8割を病院や大学、教会などNPOへ振り向けていた。多くはいわゆるプロボノ(無報酬の公益サービス)だった。「最後の講義」のテーマがNPOだったのも、単なる巡り合わせとは言い切れない。
NPOは利益追求を使命としないぶんだけ、営利企業以上に人間主義になじむ。利益を増やす(コストを減らす)ために人員整理するという動機が働きにくいからだ。その意味で、NPOはドラッカーにとって原点回帰かもしれなかった。彼の出世作『「経済人」の終わり』は反ナチス本、言い換えるとドラッカー流人間主義の出発点でもあったのだ。
再びコリンズの話に戻ろう。彼はドラッカー宅で1日過ごし、ドラッカーには大きな借りができたと感じた。帰り際、こんな会話を交わした。
「ピーター、どうやってこの借りを返せばいいでしょう?」
「もう借りは返してもらったよ。だって、今日はたくさんのことを学ばせてもらったから」
コリンズがクルマに乗り込もうとすると、ドラッカーはクルマにポンと手を置きながら、「最後にもう一つ。社会に貢献できるように」と付け加えた。
「ピーター、どうやってこの借りを返せばいいでしょう?」
「もう借りは返してもらったよ。だって、今日はたくさんのことを学ばせてもらったから」
コリンズがクルマに乗り込もうとすると、ドラッカーはクルマにポンと手を置きながら、「最後にもう一つ。社会に貢献できるように」と付け加えた。
コリンズはその後、この言葉を肝に銘じながら生きてきた。
ドラッカースクールの講演ではこう締めくくっている。
「ピーターのアドバイスに従って生きてきて、本当によかったと思っている。ピーターにはどうやっても借りを返せない。でも、違うやり方がある。ピーターに返す代わりに社会へ返す、つまり社会に貢献すればいい。きっと、こうすることでピーターに借りを返せるのだろう」
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