千葉高大(Takahiro Chiba)

💰2024年までに年収10億円(月収8334万円)に到達し、教育財団の創設を本気で目指してます🤠 窓際課長/火水FXレバ500倍億トレーダー/Voicyパーソナリティ/完全独学不動産鑑定士受験生/オートキャンパー/経歴 ガラケー開発→リクルートHR→外資IT→B2Cリテール

ロックな男

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Are you rock?



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クロフネカンパニー中村文昭氏(講演会メモ)の講演会のメモです。

 

この中村さんなんですが、ぼく、めちゃ好きなんです。

みんなも絶対好きになるはず。なんというかほんとロックなおっちゃんなんです。

このブログみて、YouTubeとかで動画もあるのでぜひ見てみてください。

ほんとにオススメです。

 

1.無気力だった学生時代
自分も高校卒業までは夢も希望も目標もなく、無気力で、いろいろな質問には「別に・・・」とか、親切な人に対しても「ほっといてくれ!」といった有様でした、母親も嘆きため息をつくばかりの状況でした。テンポのよい説明が次々と展開されます。
母親もあきれる、そんな18歳の中村さんも師匠との出会いで「仕事を通じて人生が豊かになる」道を歩んだそうです。
高校を卒業した中村さんは何か刺激を求めて上京、不本意にもブレーキの壊れた自転車で防衛庁に突っ込み、不法侵入で問題を起こした中村さんは、交番のおまわりさん堀越さんと知り合いお世話になります。
 
2.師匠との出会い
そのご縁で、行った焼鳥屋さんで隣り合わせた人が彼の師匠の田端さん。中村さんは「そのときの出会いが人生を根底から変える(相田みつお)」といわれました。
熱くなるような思いはなかったが『心のスイッチがバチバチとオンになった」「生きていくとは、働くとは」に気づいたそうです。
その気づきを与えてくれた田端さんは熊本県出身の”でかい”人で、次々と初対面の中村さんに問いかけられたそうです。
2-1.何度も繰り返す『何のために』
田端さんの問いかけの言葉には常に『何のために』がついていました。何も答えられない自分がいました。「何のために東京に出てきた?」「何のためにそのアルバイトをしている?」「何のために高校に三年間通った?」卒業したばかりなのに・・・
2-2.『みんながやるから症候群だ』
お前みんながやるからやっている、みんなと一緒にいないと不安だとか、「みんながやるから症候群だ」「60才になったとき今と同じだったら馬鹿だぞ!!お前!、一つでもいいから掴んだ物を言うてみぃーっ。」
2-3.出口で人の価値は決まる
「お前、喋れば金、金だね、大切なのは稼ぐより使うことだ。金は出口が大事だ、金持ちになったときに金を何に使うか行ってみろ。」
「時計、かばん、外車、マンション、・・・物しかないのか? 物はあの世に持っていけないぞ!」
2-4.人の目を気にしすぎている自分
「お前、人の目を気にしすぎている、いつも誰かと比べている、悩み事の大半は他人との比較だ、」中村さんは自分が 餓鬼の頃からそうだった、そのとおりだと思ったそうです。
2-5.人をひきつける人間力が大事
「お前、世の中を生きるとはそんなものではないぞ、他人には計ることの出来ない『人間力が大事』だ。」「あんたがやるんだったらと人を惹きつける力、損得ではないその人の魅力が大事だ」といわれ気づいたそうです。
 
3.師匠の人生
初めて出会った田端さんは当時26歳、中村さんの年齢とそんなに違わなかった。ぼろぼろの身なりで仲間五人と軽トラックで果物・野菜の行商をしている。田端さんは自分の成り上がりから転落への人生を語ってくれた。
早稲田大学に入学しアルバイトを始めた田端さんは、当時のバブル景気に乗って、19歳学生の身でありながら会社を設立、事業は思い通りに拡大し、早稲田大学は中退し、事業にのめりこんでいった、外車やマンションなど次々と物ばかり購入し、すっかり増長していた。
会社が崩れ始めたのは22歳の時だった。人知れず夜逃げをし、そのとき思った「自分は何のために会社を経営していたのだろうか?」そして狂ってしまった自分に気づいた。まさにそのとき、母親からの突然の電話で『親父の死』を知った。何でこんなときに・・・・。
 
4.葬式で初めて知った親父の生き方
田端さんはとるものもとりあえず、田舎の母親の元に戻った、葬式で、学校の先生だった今は亡き親父の仕事の意味を知らされた。学校の先生であった親父の仕事は、生徒の人生を豊かにする仕事だったと葬儀の場で思い知った。
葬儀に行くまで田端さんは、父親をただの学校の先生だと思っていたそうです。
葬儀には全国から900名を超える参列者が居り、その参列者である卒業してから2~30年も経った教え子たちが皆、田端さんに話したそうです。「お前の父ちゃんて人はね・・・」「お前の父ちゃんて人はね・・・」「お前の父ちゃんて人は、本気で生徒とかかわり、教師の仕事に誇りを持っていた」こと。そして、貧しいながらも、どうしても先生になりたかった親父がどんな行動をとったかを・・・・・・。
 
それは感動と驚きでした。
 
田端さんのお父上は貧しい家ではありましたが、お父上は自立の志が高く、昼間は旋盤工場で働きながら夜間高校に通い、大学に進学して教師になる夢を持っていました。
しかし、そのままの稼ぎでは大学で学びながら生活することは難しいという厳しい現実があり、とても悩まれたとのことでした。そんなときに旋盤工場の仲間から、事故による労災保険身体障害者手当給付の話を耳にしたそうです・・・・・。それからある日、誰もいない旋盤工場で彼は左手の三本の指と手の平を失い、片腕で大学に進学し、卒業しました。
【中村さんの講演を聞きながら、どうしても先生になりたかった田端さんのお父上の心情、覚悟、決断を思うと震えました。】
【なんという名前の大学に行くかではなく、大切なのは何のために大学に行くのかだ、という、中村さんの言葉か腹に落ちました】
中村さんは田端さんからお聞きした話を乗り移ったように続けました。
「人生の意味、人生の価値が良くわかった。人間は何のために生きるのか、親父の生き様から、死を持って子供に残すもので気づかされた・・・・」
 
田端さんは「親父に恥ずかしくない生き方をしよう」と思い、今までの・いかに楽しく、・金儲けし、・好きなことをするかという自分、社長という表面の文字面だけの自分を恥じ、まず『どんな自分になるか』が大切だと気づいたそうです。
「人を喜ばせる事業家になろう」「太か男になりたい」と思ったそうです。
今は行商の八百屋だがいずれは六本木に店を持つ!!と言われたそうです。
 
5.弟子入り あなたみたいな人になりたい
この話を聴きながら中村さんは野菜の行商なら僕でも出来ると思い、すぐさま『あなたみたいな人になりたい、弟子にしてください』と頼み込み仲間に入りました。
田端さんは現在、六本木と西麻布に五つのお店を持ち、増収増益を続けているそうです。
 
 
6.田端流の人間作りの考え方と方法論「自分の物差しを育てる」
 
6-1.最初は夢がなくてもいい
田端さんの人の育て方です。
最初は夢がなくても、目標がなくてもいいそうで、今をいかに生きるかが大事です。 「せめて目の前の人を喜ばせる」こと。そのうちに自分の人生の仕事の役割が手に入れられるとの教えです
6-2.自分のモノサシを育てる
人間としてネジが締まっているか、人間力がしまっているか。田端さんは育てている仲間が、自分から滲み出るような人間力がある程度育ってきたら、その仲間を独立させる主義だそうです。それまでは仲間を影に日向に徹底して「自分のモノサシを育てる」ことを教え込みます。体にしみ込むまで鍛え上げる調教のような光景です。
6-3.教えの例、ピンからキリまでを知る
田端さんの教えは、「お金・給料一つとってもただ使うな。常に、何の為に、何の為にと考えろ、一つずつ自分に問いかけろ、飯を食わなくても、着る物が粗末でも超一流からの学びに自分を投資しろ、自分のモノサシを育てろ。」といわれ続け、中村さんはそれを実践した。
中村さんが得た学び、気づきは「回転寿司をいくら食べに通っても一流の職人の考え、技は知れない、ホテルもビジネスホテルだけでは超一流のサービスは知ることが出来ない。」と教えられ、中村さんは給料をほとんど使わずに、超一流からの学びにまわされたようです。
 
6-4.4つの教え
田端師匠から6人の弟子たちが体に刷り込まれ、覚えた四つの教えがあります。
それをご披露いただきました。
 
①返事は0.2秒以内にしろ  
弟子入り当初の教え、これが当分の間の仕事だ、「ハイ、わかりました」とこたえろ。まだ役割はない。若いうちは物事を損得の軸で考えるな!ということです。
 
②頼まれごとは、試されごと  
そう思って頼まれたと思う倍のことをやれ。相手の期待値を超える対応をしなさい。これが他の人との違いを生み出す。
 
③出来ない理由を言わずにやれ 
でもなぁ、でも・・・は禁句、特に親は子供の前では絶対に聞かせないこと
 
④今できることをやれ       
明日やろうなんて思ったら明日は絶対に来ない
 
この四つの教えにも厳しくも微笑ましいエピソードがあり、師匠は弟子の行動が体に滲みこむように、電柱の影からでも、厳しい愛のチェックをされていたそうです。
弟子たちがボーっとしていると気づきのための罠を仕掛ける師匠であったそうで、このお蔭で弟子たちは次第に”出来ない理由、でもなぁ”をいわないように戒めあい、”今できること、今できること”に自然と集中するようになり、「今回こそ頼まれごとの予測を上回るようにしよう」と努め続けたそうです。
中村さんがこの四つの教えを通じて学んだことは「開き直れば何でもできる」し、相手の予想を上回る頼まれごとを誰かに成すと、相手の喜び度は「ありがとう、悪かったね。」といった物ではなく、何なのあんたたちは!!」と、怒ったような口調で驚嘆し、心から喜ばれるそうです。これに対する”決め台詞”は俺たちの仕事はあなたの予測を上回ることです。」で応えるそうです。
(感動のエピソード 本業のレストランを一日休んでまでして、翌日の結婚式の披露宴プロデュースに全力を投じ、新郎新婦の期待をはるかに上回った感動の桜吹雪のウエディングは別の機会にいたします)
 
この厳しい四つの教えの実践を通じて、彼らの身体に仕事への姿勢が滲みこみ、モノサシが大きくなっていったと感じます。その結果として、中村さんに対し、お客様から「あんたじゃないと・・・・・」と依頼されるようになったのでしょう。
今や「あんたじゃないと・・・・・」と、役割が与えられたのです。
 
終わりに
中村さんは今、レストラン、ブライダルプロデュース、講演活動、執筆活動に加え、地球温暖化防止のためにできること、3000万部の号外新聞作り、割り箸を辞める”マイお箸運動”を「できない理由を言わずに出来ることから」「一人ひとりの意識改革」と「人間力を強める活動をわかりやすく、情熱的に全国でされています。
 
 
 
 

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